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でおひでおの画室(旧)

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RAINBOW

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死亡通知 四

 アパートへの帰り道、さて自分の最後の作品はどうしようか、何を描こう、どうせならもう思い残すことは無いと言えるようなものにしたい、などと考えながら歩く男の足取りは軽やかだった。久しく忘れていた清清しさだ。目に映る景色がこれほど新鮮に感じられたことは無かった。空は高く、鳥のさえずりが耳に響く。雨が降れば降るで傘も差さずに濡れて歩くのも心地良い。全てが輝いて見えた。自然ばかりでは無い、打ち捨てられたゴミの山でさえ何か微細で高貴な粒子で出来ているようだった。さながら世界は立体の万華鏡だ。今まで俺は何を見ていたんだろう。本当に生きていたと言えるんだろうか。この世の全てを描きたいと男は思った。
 男はアパートに戻ると部屋から荷物を全部運び出して処分した。そして画材店であるだけの絵の具と筆を調達した。しかしキャンバスは用意しなかった。どんな大きなサイズにしても最後の一枚として描くには物足りないと考えた男は、アパートの部屋そのものをキャンバスにすることを思い付いたのだった。人生最後の作品は人に見てもらうためでは無く、実際誰の目にも見えなかったが、自分の思いの丈が描けさえすれば良い。ならば誰の邪魔も入らない自室を絵で埋め尽くすというのは素晴らしいアイデアのように思われた。
 

 がらんとした部屋の中で男は筆を持ったまましばし途方に暮れた。絵を描くのは本当に久し振りだった。上手く描けるかな、描きたいものは沢山あるのに。何から始めよう、始め、・・・そうか、全ての始まりから描いてみよう。男は壁に筆を走らせた。
 まず最初に描き上がったのは座っている赤ん坊だった。ここから俺が始まったんだ。次にその両脇にまだ若かった両親を描いた。ちょっと似てないか。まあ良い、この時は俺も祝福されていたんだろう。男は苦笑いした。
 しかし完全に祝福されていたとは言えなかったようだ。帝王切開で産まれてすぐに保育器に入れられた彼は母親より遅れて退院するはずだったが、何を心得違いしたのか父親が二人同時に退院させた挙句、家に母親と赤ん坊だけを残して自分は仕事に出掛けてしまったのだ。母親の実家は遠く、しかも折悪しく祖母は眼の手術をしたばかりで手伝いに来ることも出来なかった。結局母親は無理が祟って身体を壊し、男はしばらくの間父親の実家で預けられた。面倒はほとんど祖父が見ていたらしい。女手として伯母もいたが自分の子育てで忙しく、彼のことは一切関知しなかったようだ。そのためか男は母親の元に戻るまでどんな女性のそばにも近寄らなかったそうだ。あの時父親がお前を連れて来さえしなければ自分で育てられたのにと何度も母親の繰言をを聞いてきたが、男はもうそんなこともどうでも良かった。確かに預けられたのが元で男は持病を抱えることになったし、父親はその後もギャンブルで大きな借金を作るなどして男も父親を憎んでいた時期もあったが、今はどこか遠い国の出来事のように思えた。 


 男は家族の背景に海を描いた。父親に連れられて初めて見た海が思い出された。手をつないで海に入った時の大きく体が波に揺られる感覚。まとわり付く潮の香り。また夜になって波の音だけが聞こえて来る真っ暗な海は何とも言えず不気味だった。後年男が島を旅するのを好んだのもこの時の印象が強く心の底に残っていたためかも知れない。
 続けて砂浜に隣り合うジャングルを描いた。その中には珍しい花や蝶、いつだったかある島で出くわした放し飼いの鶏も描いてみた。鶏と言えば子供の頃描いたあの鶏の絵はどこへ行ったろう、男は子供時代を思い出す。友達とこんな林の中で秘密基地を作ったりトンネルを掘ったりした、そんな場面も描いた。懐かしい少年の彼らも今はどこでどう
しているか全く知らない。         
 ジャングルの上に広がる青空、さらにその上には宇宙。男は天井に描き進んで行った。星星の間にはUFOや昔熱中した漫画の主人公、マッドサイエンティスト、ロボット、異星人、怪物達、それに天使も加わる。
 また地上に戻れば憧れていた世界の遺跡群を、中でもお気に入りだったインカ、そこへはなぜか飼っていた黒い犬を描いた。自転車でマチュピチュを散歩する少年姿の男と犬。散歩から帰ると小さな平屋の居間のテーブルにはチョコレートの誕生日ケーキがあった。窓からは狭い庭が見える。庭には雪が積もり雪だるまがいる。部屋では金魚が宙を泳いでいる。金色の金魚だ。灰色だったのがいつの間にか金色になっていた。あの金魚もちょっとした隙に近所の猫に食べられてひれしか残っていなかったっけ、と男は今も不憫に思う。


 気が付けば子供時代の思い出ばかり描いていた。何か大事なものを忘れてはいまいか。男はまだ空白になっている壁に描き始めた。女の裸だ。裸婦は昔から絵画の重要なモチーフだ。かぐわしい女の肌、とりわけ男が乳房に執着したのは赤ん坊の時に得られなかった母親への思慕が尾を引いたのだろう。裸婦には月が良く似合うというのが彼の持論だった。背後には冷たく薄っすらと銀色に輝くすすきの野原がどこまでも続いて行く。たちまち壁は月夜に照
らし出された裸婦だらけになった。まるでハーレムか女護が島のようだった。これでは切りが無い。そうだ、愛する人が一人いれば良いんだ。男は改めて理想の女を描くことにした。
 理想の女!男の密かな夢は音楽が出来る女と暮らすことだった。どこか山里の、或いは海辺でも良い、庭のある小奇麗な家で男は絵を描き、女はピアノを弾く。そんな風に描いてみたが、女の顔は髪に隠れて見えない。敢えて顔は描かないままに置いた。


 男は扉や窓ガラスはもちろん、台所のシンクやカーテンレールでも描けるところにはどこにでも描いて行った。トイレは床から天井まで全部青く塗りあちらこちら雲を散らす。天空のトイレだ。一度描いた上からも次々に塗り重ねて行った。今や男の関心は絵だけであった。絵と自分しか存在しないかのようだった。実のところ世界は少し前から文字通りそのようになっていたのだ。もし男が窓を開けて外を窺えば、ただ暗闇しか見いだせなかっただろう。しかし不思議なことに部屋の中は電灯も外していたにも拘わらず明るさを保っていた。絵それ自体が発光しているかのようだった。しかも僅かに振動して何か得体の知れない生き物が静かに呼吸しているようにも見えた。
 絵を描き始めてからどの位の時が流れたか。数日のようにも思えるし、数ヶ月、数年、或いは時間の止まったこの世界では一瞬の出来事に過ぎなかったのかも知れない。男はついに筆をおいた。部屋中を埋め尽くした絵は色と形が渾然となり、近付いてみて漸く何が描かれているか判別出来るのだった。ちょうど彼の脳に蓄えられた全てをぶちまけたようだとでも言えば良いだろうか。男は絵を眺めるとも無く眺めながらしばし放心した。とうとう俺はやった。描き尽くした。もういつ死んでも良い。男の心は今までに無く静寂だった。               
 

 その時、男の目の前を何かが落ちた。拾い上げたそれはあの死亡を通告した紙片だった。あれ? こんなところに。一瞥した男は怪訝な顔から驚きの表情へ、最後には大声で笑い出した。なぜ今まで気が付かなかったろう。これは俺の字じゃないか! 俺が俺に宛てた手紙だったんだ! するとどういう訳か、この手紙を自分でアパートの郵便受けに投函した時の光景までもがまざまざと思い出される気さえしてくるのだった。理屈では全く辻褄の合わない話だが、
男には心の底から込み上げるこの実感は間違い無いもののように思われた。そういうことだったのか!男は床の上に大の字になり笑い続けた。そしてゆっくりと目を瞑った。と同時に絵は徐々に光を失い、やがて辺りは暗闇に包まれた。しばらくの間笑い声を残しながら男の姿も見えなくなって行った。後はただ深く静かな闇が広がるばかりである。

死亡通知 三

 男は死のうと決心した。いつまでこの宙ぶらりんが続くのか見当も付かない。いっそのこと死んでしまえば全てが終わってくれるのではないか。しかし死ぬとしてもどうやって死のう。痛いのは嫌だ。決心したもののおいそれとは踏み出す勇気が出ない。それともあの紙切れの通りもう俺は死んでいるのか。だとしたら死ぬことも叶わないではないか。
 実は男は自分では認めたくないのだが、薄っすらとそんな気がしないでも無いのだった。高級料理に飽きた頃から食欲そのものが湧かなくなり食事も次第に摂らなくなったが、不思議なことに体調には全く変化が見られなかった。また睡眠にしても初めの内はそろそろ時間だと見当を付けて寝ていたが、しばらく経つと眠らないでも一向に差し支えない
ことに気付いた。不食不眠、ただただすることも無いまま同じ時間だけが続いて行くのだった。苦痛は既に限界を超えていた。
 

 薬局で手に入れた大量の睡眠薬を前にしながら男は逡巡しているようだった。しかししばらくすると男の目にさっと輝きが走り、口角さえ上がるのが見えた。そうだ、おふくろに会いに行こう。一目見てから、死ぬのはそれからでも遅くは無いじゃないか。男は取り敢えずは死が先送りになったことに少し安堵したようだった。
 男は自由の身になってすぐにどこか旅に行くことを考えた。一度も国内を出たことが無かったから外国も良いと思った。だが待てよ、上手く飛行機に乗れたとしてもただ飛び続けるだけかも知れない。船も電車も駄目。車を運転するにも周りからは見えていないから事故を起こすのが関の山だ。そう考えて結局は自分の町から離れることが出来なかった。だから母親の家に行くには歩くよりほかは無い。まあ、時間は幾らでもあるんだ、歩いて行くのも良いだろう。男は書店で地図を手にするとそのまま旅に出掛けた。
 

 数百キロの道のりを男はひたすら歩いた。人生でこんなに歩いたのはもちろん初めてだ。だが脚の疲れは全く無い。空腹ももとより無いのだが、せっかくだからと土地土地の名物をつまんだり、ぼんやり景色を眺めながら歩いた。寝る必要も無いのでゆっくり歩いているつもりでも母親の家まであっと言う間だった。
 家が見えた。思えば久し振りの里帰りだ。最後に帰ったのは父親が死んだ時だからもう十年になるだろうか。もっと早く来るべきだったが今更仕方が無い。男は鍵を取り出して玄関の扉を開けた。
 母親は在宅だった。良かった、外出していたらもう一生会えないところだったと男は胸を撫で下ろした。彼女は昔から良くそうしていたように、居間でテレビを付けながらコーヒーを飲んでいた。            
「ただいま」
 男の呼び掛けに応じるはずも無い。彼は母親のすぐ隣に座り顔をじっと見た。しばらく見ない内にずいぶん老けてしまったな。そりゃそうか、もう八十を超えてる頃だ。俺がもっとしっかりしていれば違う老後もあったろうに、少しも親孝行出来なかった・・・。男はうなだれていった。
 その時突然、テレビを見ていた母親が大きな笑い声を立てた。男はビクッと反射的に顔を上げる。すると視線の先に何か見覚えのあるものが映った。それは昔男が描いた母親の肖像画だった。男は虚を突かれた。ああ、こんなものまだ飾ってくれていたのか。そう言えばあの頃は今よりましだったなと脳裏に過去が蘇えった。 
 男は画家を目指していた。この絵を描いたのもかれこれ三十年近く前のことだ。母親は大変喜んだ。そして今でも大切に飾っているのだ。ところが男はなかなか目が出なかった。仲間達は次々とデビューを決めて行く。男は次第に疎外感を深めた。友人との付き合いも絶ち、ついには絵も描かなくなり、アルバイトのつもりで始めた警備員の仕事を続け今に至るのである。
「そうか! 俺にはこれがあったんだ」
 男はそう叫ぶと思わずその場で立ち上がった。
「おふくろ、どうもありがとう。おふくろのお蔭で死ぬ前にやり残したことを思い出したよ」
 男はしばらくの間母親のそばでテレビを眺めたり家の中を見て回ったりしていたが、やがて潮時だという風情で母親の前に戻ると、
「今まで世話ばかり掛けて何も出来なくてご免。でも感謝だけはしてるよ。おふくろの子で本当に良かった。じゃあ、そろそろ行かなくちゃ。いつまでも元気で長生きしろよ」
 テレビを見ている母親は全く気が付かないままだが、男は構わず彼女の手を両手で握りながらそう言うと一つ大きく息を吐いて家を後にした。                            

死亡通知 二

 男はベッドに仰向けに横たわり、天井を見るともなしに見ながら考えた。どうもおかしい。一体どうなっているんだ。街の様子は普段通りだ。しかしいつまで経っても時間が進まない。太陽の位置も変わらない。誰に声を掛けてもまるで自分が見えていないように無反応だ。
 確かに俺はほとんど人付き合いをしないから道を歩いていても知り合いに出会うこと も無く、誰も俺の方を気にすることも無かった。そういう意味では透明人間のようなものだ。むしろそうであることを好んでいた。 しかし例えば何か店で物を買えばちゃんと対応してもらえるし、たまには見知らぬ人から道を聞かれ答えることもある。こんな風に道でぶつかりそうになりながら、こちらをちらりとも見ず避けるそぶりもせず突進されるなんてことは無かった。
 疲れているんだろうか。嫌な夢でも見てるんだろうか。男は少しも眠くなかったが、目が覚めたら元通りに戻っているかも知れないと期待して無理やり目を閉じた。


  どのくらいの時間が経ったろうか。男はもう十分だと思いゆっくりと目を開けた。期待と不安の中時計を見ると、果たして針は○時○分を指していた。偶然同じ時刻に目覚めるなどということは無いだろう。男は覚悟を決めたような顔をして外出の支度を始めた。
 人や車に注意しながらゆっくりと歩き駅前まで来ると、駅舎の時計を確かめた。やはり時間は止まったままだ。男は件のデパートに入りると売り場を抜け奥にある業務員用の扉を開けて中に消えて行った。
 男はこのデパートで警備員をしている。喫茶店での出来事の後、急いで警備員室に向かったが、男が何を言おうが喚こうが少しも反応が無かったのを、もう一度確認に来たのだった。しかし今回もやはり同じだった。デパート内にいる同僚の誰に当たっても彼に気が付くものはいなかった。
 男はとにかく落ち着いて考えようと思いアパートに帰った。くずかごから拾い出した例の紙を前にしながら、全てはここからおかしくなったのだ、全く迷惑な話だ、誰がこんなことを、それにしても汚い字だな、などと頭を巡らしたが何も思い当たることは無かった。自分はこうして生きているのは確かだし、世の中だって一見何も変わっちゃいない。ただ自分だけまるで別の次元に取り残されてしまったみたいだ。ああ、気が狂いそうだ。いや、もう既に狂ってるんだろうか。いくら考えても答えは出なかった。 
 
 

 その後も男はしばしば職場の様子を見に行ったが結果はいつも期待外れに終わった。そして以前とは反対に、職場を後にした足で喫茶店に向かうのだった。
 男は席に座り店内を観察する。常に同じ光景だ。同じ客達が同じ席で、ある者は新聞を読み、ある者はおしゃべりに興じる。それがいつまでも続き、退屈する様子も無い。ただ男が喫茶店に入って一分程は客の出入りがある。しかしそれが過ぎてしまうと同じ状態で膠着してしまうらしいのだった。
 またこんなことも分かった。例の老人に運ばれて来たコーヒーを試みに男は取り上げてみると、老人は何事も無かったかのようにコーヒーがあったであろう空間に手を伸ばしてから口元に引き寄せ飲む仕草をしたのである。演技とは
思えない。彼にはちゃんとコーヒーが存在しているのだと男は理解した。老人から奪ったコーヒーを飲んでみるとそれは正真正銘のそれであった。こちらの世界にも向こうの世界にも確かにコーヒーは存在しているようである。
  

 男は次第にこの状況を受け入れて行ったが、どうしても自分が死んだとはとても思えなかった。体の感覚は今まで通りだ。もし死んだのならもう少し何かふわふわとした状態になりはしないだろうか。誰か先祖が迎えに来るなり、花畑が見えたりしないものなのか。それとも浮かばれない霊としてこの世を彷徨っているのだろうか。
 しかし、兎にも角にも男は自由になったのだ。もう仕事に行く必要も無ければ、店では何でも黙って手に入れることが出来るから金すら不用だ。
 男は早速高級レストランへ行き、今まで食べたことはもちろん名前を聞いたことも無いような料理を片端から平らげた。和食、中華、フランス料理、イタリア料理、インド料理、アフリカ料理などなど。しかし美食も続けば飽きるものだと知った。しかも一人で食べるのはどんなご馳走でも味気無い。
 自由になったのは良いが男は何とも退屈なことに気が付いた。テレビでは同じ番組が延々と続くので、レンタル店の映画をこれも片端から見て行った。しかしそれも束の間の時間稼ぎにしかならなかった。何しろ時間は止まったまま幾ら使っても無くならないのだから!   
 

 男はいつまでこの状態が続くのだろうかと思った。時間の静止した空間に一人取り残された、この孤独と退屈。ここから抜け出せないのならば死んだ方がましだとさえ思った。大体生きるというのは何なんだろう。人は生まれ、そして必ず死ぬ。その間に何かすることを見付け、家庭を持ち、子孫を残す。ただその繰り返しだ。よく人類は飽きず
に続いて来たものだ。何が嬉しくて生き長らえようというのだろう。踊る阿呆に見る阿呆、自分は見る阿呆で生きて来たが、どちらも阿呆には変わり無い。人間なんてただの阿呆だ。
 ここまで考えると男はふと何か思い付いたような顔をしてアパートの部屋を出た。歩き慣れた道を通りデパートに着くとまっすぐに五階の喫茶店へ向かった。喫茶店に入ると男は席へは向かわず、あるウェイトレスの前で止まった。彼女にはもちろん男の姿は見えていない。男はいきなり女の背中に腕を回すとゆっくりと引き寄せ、彼女の顔に自分の顔を近付けて行った。
 男は密かにこのウェイトレスに恋をしていたのだ。しかし親子以上に年の離れた片思いであることは十分承知していた。
 唇を重ねると男は貪るように女を求めたが、ウェイトレスは目を見開き、ただされるがまま無反応に立ち尽くすだけだった。男はなおもキスを続けながら今度は彼女の胸をまさぐり始めた。しかし女は人形のように微動だにしない。
 程なくして男は我に返った。ああ何て馬鹿なんだ。この唇の感触、確かに彼女は目の前にいるのに別世界の人間なんだ。こんなに虚しいことは無い。本当に阿呆だ。彼女には悪いことをした。男がウェイトレスを離すと、女は何事も無かったかのように仕事を続けるのだった。それから男は二度とこの喫茶店に行くことは無かった。

死亡通知 一

 玄関のあたりでコトンと音がした。郵便か何かが届いたのだろう。この音で目が覚めた男は時計を見るとまだ起きる時間ではなかったが、音の主が気になってベッドから立ち上がった。玄関ドアの郵便受けにあったのは、一通の白い封筒だった。表には○○○○様とある。男の名前だ。後は何も書いていない。差出人不明だ。切手も消印も無い。男は少し顔をしかめたが、取りあえず開封することにした。中には紙が一枚、
 
   

   ○○○○様
  あなたは○年○月○日○時○分に死亡したことを、ここに通知致します。


とだけ書かれていた。
 むっ、嫌な悪戯だ、誰がこんなものを、と男は紙を破り捨てようとしたが、ふと時計を確かめてどきりとした。○時○分ちょうどだった。正に今が○年○月○日○時○分だ。全く悪戯にしては出来過ぎている。自分が封を明けて中を読み、そして時計を見る時間までも計算して郵便受けに入れたのだろうか。だが音がしてすぐ様子を見に行く保障は無い。今日はたまたま見に行く気が起こったに過ぎない。まるで、あなたの選んだカードはこれでしょうと言って、事前に用意した封筒からカードを出して的中させる手品でも見せられているようだと男は思った。何かトリックでもあるのだろうか。気味が悪い。でも俺はこうしてちゃんと生きているじゃないか。
「フン、馬鹿馬鹿しい。」と男は呟いて封筒と紙片をくずかごに捨てた。

 

 部屋の中に良い匂いがしてきた。男が鼻唄交じりで食事の仕度をしている。一人暮らしが長いお蔭で好い加減ではあるが手馴れたものだ。作り終えると小さなテーブルに料理を運び、ふーと一息つきながら腰を下ろし、下ろしたと同時にテレビを付ける。   
 しばらくして何かが変なのに男は気付いた。そろそろいつもの番組が始まる頃だ。今日は少し早く起きたせいで前の時間帯の番組をやっているのだと思っていたが、いつまで経っても見たい番組が始まらない。チャンネルを間違えたのだろうか。いや、合っている。それとも別番組に変わったのだろうか。男は時間を確認しようとベッドの脇にある時計を振り返ってから自動的に頭を戻しかけたが、目に入った時計の文字盤にぎょっとして思わずまた見直した。○時○分のままだった。電池切れか。急いで掛けてある上着のポケットの腕時計を掴んだ。○時○分。まさかこれも電池切れということは無いだろう。
 男は深呼吸してから二つの時計をもう一度じっくりと観察した。時計は止まっているものと思っていたが良く見ると秒針は動いていた。しかし秒針が十二時のところを過ぎても他の針は動かないで○時○分のままである。徒ら
に秒針だけがぐるぐると回っているのだった。そしてぐるぐる回っている時計を見ていると、男は思考が停止して本当に時間が止まってしまったような感覚に陥った。いや、しっかりしろ。そんなことある訳無いじゃないか。誰かが俺がいない間に時計を細工したに違いない。そして変な封筒を入れて行ったんだ。そう自分に言い聞かせた。
 
 男は仕事に出掛けることにした。外に行けば時間も分かるだろう。いつもの景色の中を歩き始める。何も変わりは無い。と思ったものの、待てよ、空が妙に明るい。起きてから少なく見積もっても一時間半は経っているはずだ。ならばこの季節もう少し暗くなっている頃じゃないだろうか。それともまだ一時間も経ってないのかな。
 不安な気持ちは男を足早にさせた。とにかくちゃんとした時間が知りたい。そして落ち着きたい。本屋が目に入った。早速中に入る。何度か来ている店なので時計の場所は覚えている。レジの後ろだ。男は一拍間を置いてから時計の方へ顔を向けた。何の変哲も無いその時計はさも当然のように○時○分を指していた。店内も客がごく普通に本を見たり店員が普段通りに立ち働いているだけである。おかしい。この人達は何なんだ。店ぐるみ
で俺を騙しているんじゃないだろうな。それとも自分がおかしくなってしまったのか。男は慌てて店を出ると小走りに駆けて行った。
 コンビニ、靴屋、ドラッグストアー、魚屋、スポーツ用品店、花屋、文房具店、時計店!と手当たり次第に覗いて見たが、どこも男の期待を裏切った。そうこうしている内に駅前に男は着いていた。ロータリー越しに見える駅舎の時計も○時○分である。男は駅前のデパートに入るとエスカレーターを駆け上がるようにして五階にある喫茶店へと急いだ。喫茶店の入口が見えると漸く少し歩を緩め、平静を装いながら店内に入った。

 

 ここは男が夜勤の前に立ち寄る店である。仕事前の一杯のコーヒーがささやかな愉しみだった。店員も顔見知りだ。男は注文する時にさり気無く時間のことを聞けば良いと考えていた。ところが全く注文を取りに来る様子が無い。じりじりとしてすぐさま店員に声を掛けようとしたその時、向かいの席に年配の男性が座った。
「あの、すみません。何か御用ですか?」
 相手は無言のままである。
「他にも空いているテーブルがあるんだし、用が無いなら余所へ移ってもらえませんか?」
ともう一度言うが、男のことなど眼中に無いという風情だ。すぐにウェイトレスがやって来て老人の前にだけ水を置いた。           
「ホットコーヒー。」
「ホットコーヒーお一つですね。かしこまりました。」と言ってウェイトレスは踵を返した。呆気にとられた男は慌てて、
「おい、待ってくれよ。それは無いだろう。こっちは前からいるんだ。何で俺の方は無視するんだ。」と言いながら立ち上がり、女の後を追った。
「ちょっと待てって言うのに、聞こえないのか!」
 語気を荒げるがウェイトレスは全く振り返りもしない。男は横から追い抜いて女の正面に立った。押し止めるように彼女の腕を掴み、
「ひどいじゃないか!何度も言っているのに。どういうつも・・・」と言い掛けて男はたじろいだ。女は男のことがまるで見えていないようだった。男が思わず手を離すと女はそのまま厨房の方へ向かい、
「ホット一つ。」と声を掛けた。               
 これは演技なのだろうか。さっき書店で男が思ったように皆で騙しているのだろうか。男は店中に響く声で叫んだ。
「どういうことだ!皆で俺を笑い者にしようというのか!聞こえてるんだろう?何か言ったらどうなんだ!」
 近くのテーブルをバンバン叩いて怒鳴ったが、誰一人として男の方を見る者も無く、軽音楽が流れる中を穏やかな午後の喫茶店の風景が広がるだけであった。 

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