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でおひでおの画室(旧)

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光る花


 決して大きな声では言えないのですが、私は時々、飼い猫の深夜の散歩につきあうのを愉しみにしています。
 これからお話しすることも、そんな散歩の折りにあった本当の出来事です。
 いつものように猫と私は寝静まった真っ暗な町にいそいそとすべり出しました。
 猫の好きに任せて私が後を付いていくというのが常で、その日も猫が虫を追いかけたり、塀の上を歩いたりするのを見ながら散歩していました。
 気が付くと住宅街の外れにある畑に着いていました。猫は畑の上をずんずん行くのですが、私は足跡が付かないよう畑のへりを注意して歩きました。畑の先に小さな林のようなところがあって、そこは猫のお気に入りの場所で、同時に私のお気に入りでもあるのです。
 ほの暗い林の中で、私は虫の音だけを耳にしながらボーッと眺めるともなく辺りを眺めていました。              
 すると茂みの中で何かが光るのを見つけました。近付いてみると、それは大きな白い花でした。
 私は白い花が月明りに照らされて、闇の中でぼんやりと浮かび上がるのを見るのが好きですが、それとも全く違って、花自体が発光しているようでした。
 いつの間にか猫の姿が見えなくなりましたが、いつものことなので、そのうちにまた出てくるか、家に帰って来るだろう。私は光る花をじっくり観察することにしました。
 それはかなり大振りの、そして今まで一度も見たことのないような花でした。それに奇妙なことに、なぜだか人工的な、まるで作り物のような感じがするのでした。
 それからです。本当に奇妙なことが起こりました。
 しばらく花を見つめていると、ふいに明るさが増して、私は思わず一瞬目を閉じました。再び目を開くと、目の前に白い壁が現れたのです。
 はて、林の中にこんなものがあっただろうか。
 白い壁はぐるりと四方を囲み、地面は堅い白い床に変わり、床からはたくさんの柱が上へ伸びていました。見上げると林の梢が何だかさっきよりもはるか高くに見えるようでした。しかし光る花はどこにも見当たりません。
 その時です。
 「こんばんは。」
 突然後ろから声がしました。
 私が驚いて振り返ると、そこにはとても目の大きな女の人が立っていました。それは本当に、人間ではありえないような大きさの目なのでした。
 私は内心ギョッとしましたが、顔には出さないで、こんばんはと会釈しながら返事をしました。
 私が全て言い終わらないうちに、女の人はどうぞお入りなさいと言うと、ふいに床の一部がせり上がり扉が現れました。彼女は扉を開け、私は促されるまま中に入ることにしました。
 入るとすぐに下へ向かう階段がありましたが、扉の中はとても明るく、慣れるまで目を細めながら階段を注意深く降りることになりました。
 階段は壁に沿って丸くカーブしながら長く続き、下にたどりついた頃にようやくしっかりと目を開けることができました。
 その時に見た光景が次の絵に描いたものです。


 天井が高いドーム状の広い部屋の中央に、円形の大きな水槽のようなものが置かれ、あとはもう水槽の周りを人ひとりが歩ける通路を残したばかりでした。
 水槽には黄金色の液体がなみなみと湛えられ、天井の中央を貫いた透明なチューブからは、時折その黄金の液体が水槽に注がれるのです。
 目の大きな女の人は言いました。
 「ここは私たちの大事な食べ物の貯蔵庫です。ここで長い間熟成させてから、さらにこの下の施設で金の卵に加工されるのです。」   
 「あなたはここを訪れた初めての人間です。あなたには特別に金の卵を一つお分けしましょう。」
 そう言うと女の人は下に降りてゆき、しばらくしてから金の卵を持って戻ってきました。
 私は両手でしっかりと受け取りました。鶏の卵ほどの大きさで、ずっしりと重く感じました。表面は何かでコーティングされたように滑らかで、その輝きはまさに金の卵でした。
 うっとりとどれ程の間見とれていたでしょう。お礼を言わなくてはと、はっと気が付いて顔を上げると、今までいたドームの部屋は消えてしまい、元の林の中にポツンと立っているのでした。
 辺りは虫の音ばかり静まり返っています。女の人はもちろん、光る花もいくら探しても見つかりませんでした。
 しばらく途方に暮れていた私は、もしやと自分の手を見ましたが、今しがた確かに握られていた金の卵もやはりありませんでした。   
 いや、ちょっと待ってください!
 指の先に何かキラリと光っています。私はそれをそっと舐めてみました。そうです。ほんのりハチミツの味がしたのです。
 もうだいぶ遅くなったので、私は家に帰りました。猫はもう先に帰っていました。
 その後も何度かその林を散歩しましたが、二度と光る花を見つけることは出来ませんでした。
 でも今お話ししたことは、確かに本当にあったことなのです。


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ある雑貨屋の店先にいつしか狸が現れるようになったという。


狭い路地の奥にある店は日当たりが良いわけでもなく、植え込みがあるわけでもない。
店の前に商品が並べられた棚が置いてあるだけで、特に居心地が良いようにも思われないのに、
ふと外を見るとその狸が一匹たたずんでいるのだそうだ。
けれども近づいてみようとするとすぐにどこかへ逃げて行ってしまうのだ。


そんな話を店の主人から聞き、会計を済ませて私は店の外に出た。
あっ、狸!
私が気が付いた時にはもうすでに狸の後ろ姿は小さくなっていた。









死亡通知 四

 アパートへの帰り道、さて自分の最後の作品はどうしようか、何を描こう、どうせならもう思い残すことは無いと言えるようなものにしたい、などと考えながら歩く男の足取りは軽やかだった。久しく忘れていた清清しさだ。目に映る景色がこれほど新鮮に感じられたことは無かった。空は高く、鳥のさえずりが耳に響く。雨が降れば降るで傘も差さずに濡れて歩くのも心地良い。全てが輝いて見えた。自然ばかりでは無い、打ち捨てられたゴミの山でさえ何か微細で高貴な粒子で出来ているようだった。さながら世界は立体の万華鏡だ。今まで俺は何を見ていたんだろう。本当に生きていたと言えるんだろうか。この世の全てを描きたいと男は思った。
 男はアパートに戻ると部屋から荷物を全部運び出して処分した。そして画材店であるだけの絵の具と筆を調達した。しかしキャンバスは用意しなかった。どんな大きなサイズにしても最後の一枚として描くには物足りないと考えた男は、アパートの部屋そのものをキャンバスにすることを思い付いたのだった。人生最後の作品は人に見てもらうためでは無く、実際誰の目にも見えなかったが、自分の思いの丈が描けさえすれば良い。ならば誰の邪魔も入らない自室を絵で埋め尽くすというのは素晴らしいアイデアのように思われた。
 

 がらんとした部屋の中で男は筆を持ったまましばし途方に暮れた。絵を描くのは本当に久し振りだった。上手く描けるかな、描きたいものは沢山あるのに。何から始めよう、始め、・・・そうか、全ての始まりから描いてみよう。男は壁に筆を走らせた。
 まず最初に描き上がったのは座っている赤ん坊だった。ここから俺が始まったんだ。次にその両脇にまだ若かった両親を描いた。ちょっと似てないか。まあ良い、この時は俺も祝福されていたんだろう。男は苦笑いした。
 しかし完全に祝福されていたとは言えなかったようだ。帝王切開で産まれてすぐに保育器に入れられた彼は母親より遅れて退院するはずだったが、何を心得違いしたのか父親が二人同時に退院させた挙句、家に母親と赤ん坊だけを残して自分は仕事に出掛けてしまったのだ。母親の実家は遠く、しかも折悪しく祖母は眼の手術をしたばかりで手伝いに来ることも出来なかった。結局母親は無理が祟って身体を壊し、男はしばらくの間父親の実家で預けられた。面倒はほとんど祖父が見ていたらしい。女手として伯母もいたが自分の子育てで忙しく、彼のことは一切関知しなかったようだ。そのためか男は母親の元に戻るまでどんな女性のそばにも近寄らなかったそうだ。あの時父親がお前を連れて来さえしなければ自分で育てられたのにと何度も母親の繰言をを聞いてきたが、男はもうそんなこともどうでも良かった。確かに預けられたのが元で男は持病を抱えることになったし、父親はその後もギャンブルで大きな借金を作るなどして男も父親を憎んでいた時期もあったが、今はどこか遠い国の出来事のように思えた。 


 男は家族の背景に海を描いた。父親に連れられて初めて見た海が思い出された。手をつないで海に入った時の大きく体が波に揺られる感覚。まとわり付く潮の香り。また夜になって波の音だけが聞こえて来る真っ暗な海は何とも言えず不気味だった。後年男が島を旅するのを好んだのもこの時の印象が強く心の底に残っていたためかも知れない。
 続けて砂浜に隣り合うジャングルを描いた。その中には珍しい花や蝶、いつだったかある島で出くわした放し飼いの鶏も描いてみた。鶏と言えば子供の頃描いたあの鶏の絵はどこへ行ったろう、男は子供時代を思い出す。友達とこんな林の中で秘密基地を作ったりトンネルを掘ったりした、そんな場面も描いた。懐かしい少年の彼らも今はどこでどう
しているか全く知らない。         
 ジャングルの上に広がる青空、さらにその上には宇宙。男は天井に描き進んで行った。星星の間にはUFOや昔熱中した漫画の主人公、マッドサイエンティスト、ロボット、異星人、怪物達、それに天使も加わる。
 また地上に戻れば憧れていた世界の遺跡群を、中でもお気に入りだったインカ、そこへはなぜか飼っていた黒い犬を描いた。自転車でマチュピチュを散歩する少年姿の男と犬。散歩から帰ると小さな平屋の居間のテーブルにはチョコレートの誕生日ケーキがあった。窓からは狭い庭が見える。庭には雪が積もり雪だるまがいる。部屋では金魚が宙を泳いでいる。金色の金魚だ。灰色だったのがいつの間にか金色になっていた。あの金魚もちょっとした隙に近所の猫に食べられてひれしか残っていなかったっけ、と男は今も不憫に思う。


 気が付けば子供時代の思い出ばかり描いていた。何か大事なものを忘れてはいまいか。男はまだ空白になっている壁に描き始めた。女の裸だ。裸婦は昔から絵画の重要なモチーフだ。かぐわしい女の肌、とりわけ男が乳房に執着したのは赤ん坊の時に得られなかった母親への思慕が尾を引いたのだろう。裸婦には月が良く似合うというのが彼の持論だった。背後には冷たく薄っすらと銀色に輝くすすきの野原がどこまでも続いて行く。たちまち壁は月夜に照
らし出された裸婦だらけになった。まるでハーレムか女護が島のようだった。これでは切りが無い。そうだ、愛する人が一人いれば良いんだ。男は改めて理想の女を描くことにした。
 理想の女!男の密かな夢は音楽が出来る女と暮らすことだった。どこか山里の、或いは海辺でも良い、庭のある小奇麗な家で男は絵を描き、女はピアノを弾く。そんな風に描いてみたが、女の顔は髪に隠れて見えない。敢えて顔は描かないままに置いた。


 男は扉や窓ガラスはもちろん、台所のシンクやカーテンレールでも描けるところにはどこにでも描いて行った。トイレは床から天井まで全部青く塗りあちらこちら雲を散らす。天空のトイレだ。一度描いた上からも次々に塗り重ねて行った。今や男の関心は絵だけであった。絵と自分しか存在しないかのようだった。実のところ世界は少し前から文字通りそのようになっていたのだ。もし男が窓を開けて外を窺えば、ただ暗闇しか見いだせなかっただろう。しかし不思議なことに部屋の中は電灯も外していたにも拘わらず明るさを保っていた。絵それ自体が発光しているかのようだった。しかも僅かに振動して何か得体の知れない生き物が静かに呼吸しているようにも見えた。
 絵を描き始めてからどの位の時が流れたか。数日のようにも思えるし、数ヶ月、数年、或いは時間の止まったこの世界では一瞬の出来事に過ぎなかったのかも知れない。男はついに筆をおいた。部屋中を埋め尽くした絵は色と形が渾然となり、近付いてみて漸く何が描かれているか判別出来るのだった。ちょうど彼の脳に蓄えられた全てをぶちまけたようだとでも言えば良いだろうか。男は絵を眺めるとも無く眺めながらしばし放心した。とうとう俺はやった。描き尽くした。もういつ死んでも良い。男の心は今までに無く静寂だった。               
 

 その時、男の目の前を何かが落ちた。拾い上げたそれはあの死亡を通告した紙片だった。あれ? こんなところに。一瞥した男は怪訝な顔から驚きの表情へ、最後には大声で笑い出した。なぜ今まで気が付かなかったろう。これは俺の字じゃないか! 俺が俺に宛てた手紙だったんだ! するとどういう訳か、この手紙を自分でアパートの郵便受けに投函した時の光景までもがまざまざと思い出される気さえしてくるのだった。理屈では全く辻褄の合わない話だが、
男には心の底から込み上げるこの実感は間違い無いもののように思われた。そういうことだったのか!男は床の上に大の字になり笑い続けた。そしてゆっくりと目を瞑った。と同時に絵は徐々に光を失い、やがて辺りは暗闇に包まれた。しばらくの間笑い声を残しながら男の姿も見えなくなって行った。後はただ深く静かな闇が広がるばかりである。

死亡通知 三

 男は死のうと決心した。いつまでこの宙ぶらりんが続くのか見当も付かない。いっそのこと死んでしまえば全てが終わってくれるのではないか。しかし死ぬとしてもどうやって死のう。痛いのは嫌だ。決心したもののおいそれとは踏み出す勇気が出ない。それともあの紙切れの通りもう俺は死んでいるのか。だとしたら死ぬことも叶わないではないか。
 実は男は自分では認めたくないのだが、薄っすらとそんな気がしないでも無いのだった。高級料理に飽きた頃から食欲そのものが湧かなくなり食事も次第に摂らなくなったが、不思議なことに体調には全く変化が見られなかった。また睡眠にしても初めの内はそろそろ時間だと見当を付けて寝ていたが、しばらく経つと眠らないでも一向に差し支えない
ことに気付いた。不食不眠、ただただすることも無いまま同じ時間だけが続いて行くのだった。苦痛は既に限界を超えていた。
 

 薬局で手に入れた大量の睡眠薬を前にしながら男は逡巡しているようだった。しかししばらくすると男の目にさっと輝きが走り、口角さえ上がるのが見えた。そうだ、おふくろに会いに行こう。一目見てから、死ぬのはそれからでも遅くは無いじゃないか。男は取り敢えずは死が先送りになったことに少し安堵したようだった。
 男は自由の身になってすぐにどこか旅に行くことを考えた。一度も国内を出たことが無かったから外国も良いと思った。だが待てよ、上手く飛行機に乗れたとしてもただ飛び続けるだけかも知れない。船も電車も駄目。車を運転するにも周りからは見えていないから事故を起こすのが関の山だ。そう考えて結局は自分の町から離れることが出来なかった。だから母親の家に行くには歩くよりほかは無い。まあ、時間は幾らでもあるんだ、歩いて行くのも良いだろう。男は書店で地図を手にするとそのまま旅に出掛けた。
 

 数百キロの道のりを男はひたすら歩いた。人生でこんなに歩いたのはもちろん初めてだ。だが脚の疲れは全く無い。空腹ももとより無いのだが、せっかくだからと土地土地の名物をつまんだり、ぼんやり景色を眺めながら歩いた。寝る必要も無いのでゆっくり歩いているつもりでも母親の家まであっと言う間だった。
 家が見えた。思えば久し振りの里帰りだ。最後に帰ったのは父親が死んだ時だからもう十年になるだろうか。もっと早く来るべきだったが今更仕方が無い。男は鍵を取り出して玄関の扉を開けた。
 母親は在宅だった。良かった、外出していたらもう一生会えないところだったと男は胸を撫で下ろした。彼女は昔から良くそうしていたように、居間でテレビを付けながらコーヒーを飲んでいた。            
「ただいま」
 男の呼び掛けに応じるはずも無い。彼は母親のすぐ隣に座り顔をじっと見た。しばらく見ない内にずいぶん老けてしまったな。そりゃそうか、もう八十を超えてる頃だ。俺がもっとしっかりしていれば違う老後もあったろうに、少しも親孝行出来なかった・・・。男はうなだれていった。
 その時突然、テレビを見ていた母親が大きな笑い声を立てた。男はビクッと反射的に顔を上げる。すると視線の先に何か見覚えのあるものが映った。それは昔男が描いた母親の肖像画だった。男は虚を突かれた。ああ、こんなものまだ飾ってくれていたのか。そう言えばあの頃は今よりましだったなと脳裏に過去が蘇えった。 
 男は画家を目指していた。この絵を描いたのもかれこれ三十年近く前のことだ。母親は大変喜んだ。そして今でも大切に飾っているのだ。ところが男はなかなか目が出なかった。仲間達は次々とデビューを決めて行く。男は次第に疎外感を深めた。友人との付き合いも絶ち、ついには絵も描かなくなり、アルバイトのつもりで始めた警備員の仕事を続け今に至るのである。
「そうか! 俺にはこれがあったんだ」
 男はそう叫ぶと思わずその場で立ち上がった。
「おふくろ、どうもありがとう。おふくろのお蔭で死ぬ前にやり残したことを思い出したよ」
 男はしばらくの間母親のそばでテレビを眺めたり家の中を見て回ったりしていたが、やがて潮時だという風情で母親の前に戻ると、
「今まで世話ばかり掛けて何も出来なくてご免。でも感謝だけはしてるよ。おふくろの子で本当に良かった。じゃあ、そろそろ行かなくちゃ。いつまでも元気で長生きしろよ」
 テレビを見ている母親は全く気が付かないままだが、男は構わず彼女の手を両手で握りながらそう言うと一つ大きく息を吐いて家を後にした。                            

死亡通知 二

 男はベッドに仰向けに横たわり、天井を見るともなしに見ながら考えた。どうもおかしい。一体どうなっているんだ。街の様子は普段通りだ。しかしいつまで経っても時間が進まない。太陽の位置も変わらない。誰に声を掛けてもまるで自分が見えていないように無反応だ。
 確かに俺はほとんど人付き合いをしないから道を歩いていても知り合いに出会うこと も無く、誰も俺の方を気にすることも無かった。そういう意味では透明人間のようなものだ。むしろそうであることを好んでいた。 しかし例えば何か店で物を買えばちゃんと対応してもらえるし、たまには見知らぬ人から道を聞かれ答えることもある。こんな風に道でぶつかりそうになりながら、こちらをちらりとも見ず避けるそぶりもせず突進されるなんてことは無かった。
 疲れているんだろうか。嫌な夢でも見てるんだろうか。男は少しも眠くなかったが、目が覚めたら元通りに戻っているかも知れないと期待して無理やり目を閉じた。


  どのくらいの時間が経ったろうか。男はもう十分だと思いゆっくりと目を開けた。期待と不安の中時計を見ると、果たして針は○時○分を指していた。偶然同じ時刻に目覚めるなどということは無いだろう。男は覚悟を決めたような顔をして外出の支度を始めた。
 人や車に注意しながらゆっくりと歩き駅前まで来ると、駅舎の時計を確かめた。やはり時間は止まったままだ。男は件のデパートに入りると売り場を抜け奥にある業務員用の扉を開けて中に消えて行った。
 男はこのデパートで警備員をしている。喫茶店での出来事の後、急いで警備員室に向かったが、男が何を言おうが喚こうが少しも反応が無かったのを、もう一度確認に来たのだった。しかし今回もやはり同じだった。デパート内にいる同僚の誰に当たっても彼に気が付くものはいなかった。
 男はとにかく落ち着いて考えようと思いアパートに帰った。くずかごから拾い出した例の紙を前にしながら、全てはここからおかしくなったのだ、全く迷惑な話だ、誰がこんなことを、それにしても汚い字だな、などと頭を巡らしたが何も思い当たることは無かった。自分はこうして生きているのは確かだし、世の中だって一見何も変わっちゃいない。ただ自分だけまるで別の次元に取り残されてしまったみたいだ。ああ、気が狂いそうだ。いや、もう既に狂ってるんだろうか。いくら考えても答えは出なかった。 
 
 

 その後も男はしばしば職場の様子を見に行ったが結果はいつも期待外れに終わった。そして以前とは反対に、職場を後にした足で喫茶店に向かうのだった。
 男は席に座り店内を観察する。常に同じ光景だ。同じ客達が同じ席で、ある者は新聞を読み、ある者はおしゃべりに興じる。それがいつまでも続き、退屈する様子も無い。ただ男が喫茶店に入って一分程は客の出入りがある。しかしそれが過ぎてしまうと同じ状態で膠着してしまうらしいのだった。
 またこんなことも分かった。例の老人に運ばれて来たコーヒーを試みに男は取り上げてみると、老人は何事も無かったかのようにコーヒーがあったであろう空間に手を伸ばしてから口元に引き寄せ飲む仕草をしたのである。演技とは
思えない。彼にはちゃんとコーヒーが存在しているのだと男は理解した。老人から奪ったコーヒーを飲んでみるとそれは正真正銘のそれであった。こちらの世界にも向こうの世界にも確かにコーヒーは存在しているようである。
  

 男は次第にこの状況を受け入れて行ったが、どうしても自分が死んだとはとても思えなかった。体の感覚は今まで通りだ。もし死んだのならもう少し何かふわふわとした状態になりはしないだろうか。誰か先祖が迎えに来るなり、花畑が見えたりしないものなのか。それとも浮かばれない霊としてこの世を彷徨っているのだろうか。
 しかし、兎にも角にも男は自由になったのだ。もう仕事に行く必要も無ければ、店では何でも黙って手に入れることが出来るから金すら不用だ。
 男は早速高級レストランへ行き、今まで食べたことはもちろん名前を聞いたことも無いような料理を片端から平らげた。和食、中華、フランス料理、イタリア料理、インド料理、アフリカ料理などなど。しかし美食も続けば飽きるものだと知った。しかも一人で食べるのはどんなご馳走でも味気無い。
 自由になったのは良いが男は何とも退屈なことに気が付いた。テレビでは同じ番組が延々と続くので、レンタル店の映画をこれも片端から見て行った。しかしそれも束の間の時間稼ぎにしかならなかった。何しろ時間は止まったまま幾ら使っても無くならないのだから!   
 

 男はいつまでこの状態が続くのだろうかと思った。時間の静止した空間に一人取り残された、この孤独と退屈。ここから抜け出せないのならば死んだ方がましだとさえ思った。大体生きるというのは何なんだろう。人は生まれ、そして必ず死ぬ。その間に何かすることを見付け、家庭を持ち、子孫を残す。ただその繰り返しだ。よく人類は飽きず
に続いて来たものだ。何が嬉しくて生き長らえようというのだろう。踊る阿呆に見る阿呆、自分は見る阿呆で生きて来たが、どちらも阿呆には変わり無い。人間なんてただの阿呆だ。
 ここまで考えると男はふと何か思い付いたような顔をしてアパートの部屋を出た。歩き慣れた道を通りデパートに着くとまっすぐに五階の喫茶店へ向かった。喫茶店に入ると男は席へは向かわず、あるウェイトレスの前で止まった。彼女にはもちろん男の姿は見えていない。男はいきなり女の背中に腕を回すとゆっくりと引き寄せ、彼女の顔に自分の顔を近付けて行った。
 男は密かにこのウェイトレスに恋をしていたのだ。しかし親子以上に年の離れた片思いであることは十分承知していた。
 唇を重ねると男は貪るように女を求めたが、ウェイトレスは目を見開き、ただされるがまま無反応に立ち尽くすだけだった。男はなおもキスを続けながら今度は彼女の胸をまさぐり始めた。しかし女は人形のように微動だにしない。
 程なくして男は我に返った。ああ何て馬鹿なんだ。この唇の感触、確かに彼女は目の前にいるのに別世界の人間なんだ。こんなに虚しいことは無い。本当に阿呆だ。彼女には悪いことをした。男がウェイトレスを離すと、女は何事も無かったかのように仕事を続けるのだった。それから男は二度とこの喫茶店に行くことは無かった。

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