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でおひでおの画室(旧)

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死亡通知 四

 アパートへの帰り道、さて自分の最後の作品はどうしようか、何を描こう、どうせならもう思い残すことは無いと言えるようなものにしたい、などと考えながら歩く男の足取りは軽やかだった。久しく忘れていた清清しさだ。目に映る景色がこれほど新鮮に感じられたことは無かった。空は高く、鳥のさえずりが耳に響く。雨が降れば降るで傘も差さずに濡れて歩くのも心地良い。全てが輝いて見えた。自然ばかりでは無い、打ち捨てられたゴミの山でさえ何か微細で高貴な粒子で出来ているようだった。さながら世界は立体の万華鏡だ。今まで俺は何を見ていたんだろう。本当に生きていたと言えるんだろうか。この世の全てを描きたいと男は思った。
 男はアパートに戻ると部屋から荷物を全部運び出して処分した。そして画材店であるだけの絵の具と筆を調達した。しかしキャンバスは用意しなかった。どんな大きなサイズにしても最後の一枚として描くには物足りないと考えた男は、アパートの部屋そのものをキャンバスにすることを思い付いたのだった。人生最後の作品は人に見てもらうためでは無く、実際誰の目にも見えなかったが、自分の思いの丈が描けさえすれば良い。ならば誰の邪魔も入らない自室を絵で埋め尽くすというのは素晴らしいアイデアのように思われた。
 

 がらんとした部屋の中で男は筆を持ったまましばし途方に暮れた。絵を描くのは本当に久し振りだった。上手く描けるかな、描きたいものは沢山あるのに。何から始めよう、始め、・・・そうか、全ての始まりから描いてみよう。男は壁に筆を走らせた。
 まず最初に描き上がったのは座っている赤ん坊だった。ここから俺が始まったんだ。次にその両脇にまだ若かった両親を描いた。ちょっと似てないか。まあ良い、この時は俺も祝福されていたんだろう。男は苦笑いした。
 しかし完全に祝福されていたとは言えなかったようだ。帝王切開で産まれてすぐに保育器に入れられた彼は母親より遅れて退院するはずだったが、何を心得違いしたのか父親が二人同時に退院させた挙句、家に母親と赤ん坊だけを残して自分は仕事に出掛けてしまったのだ。母親の実家は遠く、しかも折悪しく祖母は眼の手術をしたばかりで手伝いに来ることも出来なかった。結局母親は無理が祟って身体を壊し、男はしばらくの間父親の実家で預けられた。面倒はほとんど祖父が見ていたらしい。女手として伯母もいたが自分の子育てで忙しく、彼のことは一切関知しなかったようだ。そのためか男は母親の元に戻るまでどんな女性のそばにも近寄らなかったそうだ。あの時父親がお前を連れて来さえしなければ自分で育てられたのにと何度も母親の繰言をを聞いてきたが、男はもうそんなこともどうでも良かった。確かに預けられたのが元で男は持病を抱えることになったし、父親はその後もギャンブルで大きな借金を作るなどして男も父親を憎んでいた時期もあったが、今はどこか遠い国の出来事のように思えた。 


 男は家族の背景に海を描いた。父親に連れられて初めて見た海が思い出された。手をつないで海に入った時の大きく体が波に揺られる感覚。まとわり付く潮の香り。また夜になって波の音だけが聞こえて来る真っ暗な海は何とも言えず不気味だった。後年男が島を旅するのを好んだのもこの時の印象が強く心の底に残っていたためかも知れない。
 続けて砂浜に隣り合うジャングルを描いた。その中には珍しい花や蝶、いつだったかある島で出くわした放し飼いの鶏も描いてみた。鶏と言えば子供の頃描いたあの鶏の絵はどこへ行ったろう、男は子供時代を思い出す。友達とこんな林の中で秘密基地を作ったりトンネルを掘ったりした、そんな場面も描いた。懐かしい少年の彼らも今はどこでどう
しているか全く知らない。         
 ジャングルの上に広がる青空、さらにその上には宇宙。男は天井に描き進んで行った。星星の間にはUFOや昔熱中した漫画の主人公、マッドサイエンティスト、ロボット、異星人、怪物達、それに天使も加わる。
 また地上に戻れば憧れていた世界の遺跡群を、中でもお気に入りだったインカ、そこへはなぜか飼っていた黒い犬を描いた。自転車でマチュピチュを散歩する少年姿の男と犬。散歩から帰ると小さな平屋の居間のテーブルにはチョコレートの誕生日ケーキがあった。窓からは狭い庭が見える。庭には雪が積もり雪だるまがいる。部屋では金魚が宙を泳いでいる。金色の金魚だ。灰色だったのがいつの間にか金色になっていた。あの金魚もちょっとした隙に近所の猫に食べられてひれしか残っていなかったっけ、と男は今も不憫に思う。


 気が付けば子供時代の思い出ばかり描いていた。何か大事なものを忘れてはいまいか。男はまだ空白になっている壁に描き始めた。女の裸だ。裸婦は昔から絵画の重要なモチーフだ。かぐわしい女の肌、とりわけ男が乳房に執着したのは赤ん坊の時に得られなかった母親への思慕が尾を引いたのだろう。裸婦には月が良く似合うというのが彼の持論だった。背後には冷たく薄っすらと銀色に輝くすすきの野原がどこまでも続いて行く。たちまち壁は月夜に照
らし出された裸婦だらけになった。まるでハーレムか女護が島のようだった。これでは切りが無い。そうだ、愛する人が一人いれば良いんだ。男は改めて理想の女を描くことにした。
 理想の女!男の密かな夢は音楽が出来る女と暮らすことだった。どこか山里の、或いは海辺でも良い、庭のある小奇麗な家で男は絵を描き、女はピアノを弾く。そんな風に描いてみたが、女の顔は髪に隠れて見えない。敢えて顔は描かないままに置いた。


 男は扉や窓ガラスはもちろん、台所のシンクやカーテンレールでも描けるところにはどこにでも描いて行った。トイレは床から天井まで全部青く塗りあちらこちら雲を散らす。天空のトイレだ。一度描いた上からも次々に塗り重ねて行った。今や男の関心は絵だけであった。絵と自分しか存在しないかのようだった。実のところ世界は少し前から文字通りそのようになっていたのだ。もし男が窓を開けて外を窺えば、ただ暗闇しか見いだせなかっただろう。しかし不思議なことに部屋の中は電灯も外していたにも拘わらず明るさを保っていた。絵それ自体が発光しているかのようだった。しかも僅かに振動して何か得体の知れない生き物が静かに呼吸しているようにも見えた。
 絵を描き始めてからどの位の時が流れたか。数日のようにも思えるし、数ヶ月、数年、或いは時間の止まったこの世界では一瞬の出来事に過ぎなかったのかも知れない。男はついに筆をおいた。部屋中を埋め尽くした絵は色と形が渾然となり、近付いてみて漸く何が描かれているか判別出来るのだった。ちょうど彼の脳に蓄えられた全てをぶちまけたようだとでも言えば良いだろうか。男は絵を眺めるとも無く眺めながらしばし放心した。とうとう俺はやった。描き尽くした。もういつ死んでも良い。男の心は今までに無く静寂だった。               
 

 その時、男の目の前を何かが落ちた。拾い上げたそれはあの死亡を通告した紙片だった。あれ? こんなところに。一瞥した男は怪訝な顔から驚きの表情へ、最後には大声で笑い出した。なぜ今まで気が付かなかったろう。これは俺の字じゃないか! 俺が俺に宛てた手紙だったんだ! するとどういう訳か、この手紙を自分でアパートの郵便受けに投函した時の光景までもがまざまざと思い出される気さえしてくるのだった。理屈では全く辻褄の合わない話だが、
男には心の底から込み上げるこの実感は間違い無いもののように思われた。そういうことだったのか!男は床の上に大の字になり笑い続けた。そしてゆっくりと目を瞑った。と同時に絵は徐々に光を失い、やがて辺りは暗闇に包まれた。しばらくの間笑い声を残しながら男の姿も見えなくなって行った。後はただ深く静かな闇が広がるばかりである。

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