男は死のうと決心した。いつまでこの宙ぶらりんが続くのか見当も付かない。いっそのこと死んでしまえば全てが終わってくれるのではないか。しかし死ぬとしてもどうやって死のう。痛いのは嫌だ。決心したもののおいそれとは踏み出す勇気が出ない。それともあの紙切れの通りもう俺は死んでいるのか。だとしたら死ぬことも叶わないではないか。
実は男は自分では認めたくないのだが、薄っすらとそんな気がしないでも無いのだった。高級料理に飽きた頃から食欲そのものが湧かなくなり食事も次第に摂らなくなったが、不思議なことに体調には全く変化が見られなかった。また睡眠にしても初めの内はそろそろ時間だと見当を付けて寝ていたが、しばらく経つと眠らないでも一向に差し支えない
ことに気付いた。不食不眠、ただただすることも無いまま同じ時間だけが続いて行くのだった。苦痛は既に限界を超えていた。
薬局で手に入れた大量の睡眠薬を前にしながら男は逡巡しているようだった。しかししばらくすると男の目にさっと輝きが走り、口角さえ上がるのが見えた。そうだ、おふくろに会いに行こう。一目見てから、死ぬのはそれからでも遅くは無いじゃないか。男は取り敢えずは死が先送りになったことに少し安堵したようだった。
男は自由の身になってすぐにどこか旅に行くことを考えた。一度も国内を出たことが無かったから外国も良いと思った。だが待てよ、上手く飛行機に乗れたとしてもただ飛び続けるだけかも知れない。船も電車も駄目。車を運転するにも周りからは見えていないから事故を起こすのが関の山だ。そう考えて結局は自分の町から離れることが出来なかった。だから母親の家に行くには歩くよりほかは無い。まあ、時間は幾らでもあるんだ、歩いて行くのも良いだろう。男は書店で地図を手にするとそのまま旅に出掛けた。
数百キロの道のりを男はひたすら歩いた。人生でこんなに歩いたのはもちろん初めてだ。だが脚の疲れは全く無い。空腹ももとより無いのだが、せっかくだからと土地土地の名物をつまんだり、ぼんやり景色を眺めながら歩いた。寝る必要も無いのでゆっくり歩いているつもりでも母親の家まであっと言う間だった。
家が見えた。思えば久し振りの里帰りだ。最後に帰ったのは父親が死んだ時だからもう十年になるだろうか。もっと早く来るべきだったが今更仕方が無い。男は鍵を取り出して玄関の扉を開けた。
母親は在宅だった。良かった、外出していたらもう一生会えないところだったと男は胸を撫で下ろした。彼女は昔から良くそうしていたように、居間でテレビを付けながらコーヒーを飲んでいた。
「ただいま」
男の呼び掛けに応じるはずも無い。彼は母親のすぐ隣に座り顔をじっと見た。しばらく見ない内にずいぶん老けてしまったな。そりゃそうか、もう八十を超えてる頃だ。俺がもっとしっかりしていれば違う老後もあったろうに、少しも親孝行出来なかった・・・。男はうなだれていった。
その時突然、テレビを見ていた母親が大きな笑い声を立てた。男はビクッと反射的に顔を上げる。すると視線の先に何か見覚えのあるものが映った。それは昔男が描いた母親の肖像画だった。男は虚を突かれた。ああ、こんなものまだ飾ってくれていたのか。そう言えばあの頃は今よりましだったなと脳裏に過去が蘇えった。
男は画家を目指していた。この絵を描いたのもかれこれ三十年近く前のことだ。母親は大変喜んだ。そして今でも大切に飾っているのだ。ところが男はなかなか目が出なかった。仲間達は次々とデビューを決めて行く。男は次第に疎外感を深めた。友人との付き合いも絶ち、ついには絵も描かなくなり、アルバイトのつもりで始めた警備員の仕事を続け今に至るのである。
「そうか! 俺にはこれがあったんだ」
男はそう叫ぶと思わずその場で立ち上がった。
「おふくろ、どうもありがとう。おふくろのお蔭で死ぬ前にやり残したことを思い出したよ」
男はしばらくの間母親のそばでテレビを眺めたり家の中を見て回ったりしていたが、やがて潮時だという風情で母親の前に戻ると、
「今まで世話ばかり掛けて何も出来なくてご免。でも感謝だけはしてるよ。おふくろの子で本当に良かった。じゃあ、そろそろ行かなくちゃ。いつまでも元気で長生きしろよ」
テレビを見ている母親は全く気が付かないままだが、男は構わず彼女の手を両手で握りながらそう言うと一つ大きく息を吐いて家を後にした。
PR