私は悪くないんだ。なーんにも悪くないんだよ。
大体せがれは結婚してから優しくなくなったし、嫁はほら結局他人じゃないか、別に酷いことするってんじゃないけ ど冷たいもんさ。
もう私も年で出歩けないから、昼間は一人ぽっちさ。
あー、あの人さえ生きてたらねぇ。こんなこともないのにねぇ。
ある午後もまだ早い頃、青年が停留所でバスを待っていた。彼はふと、何か変な声が聞こえるのに気が付いた。何だろう。この奇妙な、この世の物でないような声は。振り返ると、彼の方へ、おばあさんがまるで幽霊のように両手を前に伸ばしながらゆっくりと歩いて来るのだった。
「助けてぇ・・・ 助けてぇ・・・」
おばあさんは、そうつぶやきながら青年のすぐ隣までやって来た。しかし青年の方を見るということもなく、ただ彼の周りをつぶやきながら巡るのだった。青年は堪らなくなり、
「どうしたんですか?」と声を掛けた。
「助けてぇ・・・」
「大丈夫ですか?どうなさったんですか?」
「助けてぇ・・・」
青年は困った顔をしながら、
「あのぉ、お家はどこですか?どこから来たんですか?」と言うと、漸くおばあさんは彼の方を向いて、
「お腹すいたぁ・・・ 朝から何も食べてない・・・」
「家は遠いんですか?」
「お腹すいた・・・ 何か食べさせてぇ・・・」
「お家に誰かいないんですか?」
「誰もいないよ・・・」
「ここから遠いんですか?」
「分からない・・・」
「弱ったなぁ。僕もこれから出掛けるところだし、」と青年が言う横をバスが到着した。彼は少し考えた後、運転手に通過してもらうようジェスチャーすると、
「それじゃあ、取りあえずあそこのコンビニで何か食べる物を買いましょう。」
二人は通りの向かい側にあるコンビニに入った。
「何が良いかなぁ。おにぎりにします?」
「パンが良い。」
「飲み物は?」
「何でも良い。」
コンビニを出ると、おばあさんに菓子パンと牛乳を渡しながら青年は、
「これ食べてちょっと待っててね。今電話するからね。」と言い携帯を開いた。おばあさんは礼を言うこともなく、早速パンを食べ始める。
さて、どこに掛けようか。そうだ、役所にでも言ってみよう。市役所に電話をして事情を話すと、福祉課に繋がれた。またそこで改めて説明をする。
「ええ、そういう訳でおばあさんを保護して頂きたいんですが。・・・えっ、そういうことはやっていない・・・・業務に入っていない・・・では、どうすれば良いんですか?僕もこれから用事があるんですよ。・・・警察、そちらから警察に連絡してくれるんですね?・・・えっ、それもしない?自分で連絡しろと・・・」
何だ。役所は何もしないのか。憤慨しながらも、仕方がない、青年は110番をした。五分もしないうちにパトカーが到着した。
「おばあさん、今おまわりさんが来たからね。後はおまわりさんが良くしてくれるからね。」
そう言うと、やっと青年はホッと一息ついた。そしてやや太り気味の中年の警察官がパトカーから現れた。
「ちょうどパトロール中で近くを通っていたから良かった。で、どうされました?」
青年は手短に、都合四度目の同じ説明をした。警察官は笑みを浮かべながら言った。
「なるほど、良く分かりました。通報有難うございました。では報告書に書くので、名前と住所を教えて下さい。」
「あ、はい。」
青年は心の中で、そんなこと言わないといけないのか、でも警察が相手だから仕様がないか、と思いながら正直に答えた。横目で見ると、もう一人の警官がおばあさんをパトカーに乗せている。
「生年月日も教えて下さい。」
青年は思わずハッとしたが、平静を装って聞いた。
「えっ、生年月日もですか?」
「ええ、決まりですから。」と警察官は笑顔で答える。青年は何だ、良いことをしたのに、これでは犯罪者みたいだ、と答えながら思った。
「分かりました。どうも有難う。これでもういいですよ。」と警察官は言ってから、今度は幾分にやにやしながら続けた。
「いやぁ、あなたもちょっとした災難でしたねぇ。実はね、あのおばあちゃん、今回が初めてじゃないんですよ。もうこのすぐ裏に住んでいしてね。ご家族も一緒にいるんですが、ああやって出て来てしまって、この前の時もおばあちゃんには注意したんだけど・・・。また今度もよく言っときますから。今回はどうもご苦労さんでした、それでは。」
そうか。それじゃあ、何だかあのおばあさんに騙されたみたいだな。でもあのまま見過ごせなかったしなぁ。青年は釈然としないまま何本遅れかのバスに乗り去って行った。
私は悪くないんだ。なーんにも悪くないんだよ。
むしろ被害者なんだから。
助けてぇ・・・
助けてぇ・・・